『危機感という優しさについて』──ショッピングモールでの出来事から考えたこと
先日、家族でショッピングモールに出かけたときのことだ。
夕方の帰宅時間帯で店内は買い物客で賑わい、ざわめきの中にもどこか日常の緩さが漂っていた。妻がATMの列に並んでいる間、私は子どもと休憩スペースでのんびりしながら待っていた。
そのとき突然、館内に 甲高い火災報知器の音 が鳴り響いた。
それは誤作動のようにすぐに止むものではなく、耳に残るような長い警報だった。続いてアナウンスが流れる。
「火災発生、火災発生。」
無機質で、しかしどこか緊迫したその声に、私は反射的に子どもを抱きかかえ、妻の姿を探した。
ほどなくして、妻が少し駆け足でこちらに向かってくる姿が目に入り、その瞬間だけは周囲のざわつきがふっと遠のいた。意識の中心にあったのは、ただ家族の安全だけだ。
「ATM、やっと順番来たのに…」
合流直後、妻が少し残念そうにこぼした一言が妙に印象に残っている。私は「残念やったね〜」とだけ返したが、あの状況で避難を優先してくれたことに内心ほっとしていた。
しかし出口に向かう途中、胸の奥がざわつく光景を目にした。
火災報知器が鳴り響き、スタッフが原因確認のために走り回っているにもかかわらず、平然と買い物を続けている人たち がいるのだ。
カートを押し、商品を手に取り、まるで日常の延長線上にいるかのように。
煙は見えない。火の匂いもない。
だから「大丈夫だろう」と思ったのかもしれない。
しかし、だからといってあの状況で「逃げない」という選択をする理由は、どうしても理解できなかった。
そのとき私は改めて思った。
“これくらいなら大丈夫だろう”──この思考こそが、一番危険なのではないか。
■ 「もしも」に備えるということ
危機感という言葉は、どこか臆病で、ビクビクした態度を連想させるかもしれない。
しかし私は、危機感とは 「恐れ」ではなく「優しさ」 だと思っている。
「万が一が起きたらどうする?」
「何かおかしいと感じたら、とりあえず動ける?」
こうした“もしも”を想定できる人は、自分だけでなく周囲の安全も守ることができる。危険を避ける行動は、結果的に誰かを助けるための行動でもある。
そして危機感は、特別な訓練が必要な能力ではない。
日常の中で少しだけ想像力を働かせる。
それだけで、自然と身についていくものだ。
■ パーソナルトレーナーとして見てきた「危機感の欠如」
私はパーソナルトレーナーとして、多くの方の身体づくりをサポートしている。
その現場でも、危機感の有無が結果を左右する場面に数多く出会ってきた。
やる気に満ちあふれ、
「この重量で挑戦したい!」
と積極的に言ってくださる方は少なくない。
ただ、明らかに体のコンディションや筋力のキャパを超えていると判断すれば、私は必ずブレーキをかける。
筋トレは素晴らしい。達成感も大きい。
しかし、過信は怪我の最短ルートだ。
ほんの少しの違和感でも、無理をすれば筋肉や関節は簡単に悲鳴をあげる。
一度痛めてしまえば、トレーニングはしばらく続けられない。
場合によっては長期的に影響を残すことさえある。
だからこそ私は、お客様の「やりたい」よりも「守らなければいけない」を優先する。
危機感とは、守るために必要な“優しさ”である。
これは、火災報知器が鳴り響くショッピングモールでも、ダンベルを握るジムでも、まったく同じだ。
■ 危機感は悲観ではなく、未来への準備
火災報知器が鳴ったとき、
あなたならどう動くだろうか。
「煙がないから大丈夫」
と行動を変えないのか。
「念のため避難しよう」
と一歩を踏み出すのか。
その違いは、いざというときの生死を分けるほど大きい。
人は慣れや思い込みの中で生活している。
その中で危機感を持つことは、決して日常を暗くする行為ではなく、
むしろ 未来を安心へと導くための準備 なのだと思う。
■ 「危機感」という静かな決意
あの日の騒がしい警報音は、私に大切な気づきを与えてくれた。
妻の「ATMやっと順番来たのに…」という一言に苦笑いしながらも、避難を優先できたこと。
そして自分の判断が家族を守る行動につながったこと。
危機感は決して大げさでも臆病でもない。
それは、
「もしものとき、大切な人を守りたい」という静かな決意である。
そしてその決意は、日常のほんの小さな違和感に気づく力から生まれる。
火災でも、トレーニングでも、仕事でも、育児でも。
どんな場面にも通じる、普遍的で、人を守るための本質的な感覚だ。
危機感とは、命を守るための優しい感覚である。
私はこれからも、その感覚を胸に刻み、大切に育てていきたい。
■ 最後に──“誤作動だったから笑える話”
後日、火災報知器が鳴った原因が 誤作動 だったと知った。
そのとき初めて、「何も起きなかったからこそ笑って話せるんだ」と思った。
でも、もしあれが本当の火災だったら──。
もし判断が遅れていたら──。
そう考えると、今でも背筋が少し冷たくなる。
“誤作動でよかった”
その安堵の裏には、
「あのとき動いてよかった」という小さな自信と、「危機感の大切さ」への確信があった。